スイート・ホーム オフライン

小説原案エピソード(1)

小説「スイート・ホーム」は原案となるエピソードをみなさまからお寄せ頂きました。

それらの中から原田マハさんが特に共感した3点を紡ぎ、世界に二つとない小説に仕上げたものです。

このページではそのうち尾杉 富美子さんがお寄せ下さった小説原案エピソードをご紹介します。

尾杉 富美子さま「私が好きな香り」

山の小さなトンネルを走ってくぐりぬけ、地上に出ると空には満天の星が輝いていました。夜空の美しさに立ち止まって見上げると、一瞬、長かった一日の疲れを忘れました。その頃、私は、昼働き、夜学校へ通う二部学生。家に帰っておそい夕食をとったら、その日の宿題があります。どんなに疲れていても、すぐに眠る事は許されないのです。事務員のままではイヤだ、何か資格をとりたいと自分で選んだ道なのに、くじけそうになる毎日。

その日、夜空で一番輝いていた星に祈りました。十年後でもいい。いつか愛する夫と子どもにめぐまれ、家で幸福に暮らしたいと…。そんな未来が待っているなら、今をがんばりぬけると思ったのです。もう、36年も前の20歳の夜の事です。

それから私は、無事に資格を取得して、新しい仕事につく事ができました。今の夫と、ひょんな事から出会い、結婚もしました。しばらくは、仕事と結婚生活を両立していましたが、せっかく授かった子どもを流産したので仕事はあきらめました。

心機一転、新しい土地でやりなおしたくて、家もひっこす事にしました。夫が見つけてきた家は、それまで住んでいた便利なマンションとは正反対。古い一軒家で、トイレも水洗ではなかったのです。でも、夫に案内されてその家を訪れると、小さな植えこみから甘い香りがします。金木犀でした。私はこの香りが好きで、一番始めに買った香水も金木犀だったのです。

ガラ々と古い戸をあけると、広々した玄関が明るく陽に照らされています。はいってすぐの、狭い階段を上り二階に行くと、部屋いっぱいにさしこむお日様の光が、古い畳に輝いています。その時、確信したのです。この家でなら、元気な赤ちゃんを産む事ができると…。

マンションに住んでいた時は、木の葉の掃除に追われることもなく、町会のわずらわしさもなく、家の中は便利でラクでした。でも、なぜか私は、年中、病気ばかりしていたのです。

私が好きなのは、土と樹。ラクな暮しが幸福な暮しとは、限らなかったのです。その家で、私は次々と三人授かり、あっという間に三人の子どものお母さんになりました。子どもたちが、それぞれ自分の部屋がほしくなった頃に、今の家を購入してひっこしました。でも、夢に出てくるのはなぜか以前の古い借家なのです。広々とした玄関に、朝日がさしこんでいます。光の中を、赤や黒のランドセルを背負った子どもたちが飛びだして行きます。「お母さん、行ってきまあす!」と叫びながら…。

それは、若い頃、星を見上げて祈った夢が叶えられた一番幸福だった毎日だったからなのかもしれません。

エピソード採用に至った理由(原田マハさんより)

このエピソードからは、おもに「玄関先の金木犀」という部分と、尾杉さんが若い頃に苦学しつつも未来への夢をあきらめなかった、という部分を引用させていただきました。最初に買った家の植え込みに金木犀がいい香りを放っていたという思い出が、「スイート・ホーム」でも重要な役割を果たしています。本作ではキンモクセイや若葉、それにバターやバニラのいい香りを全編にちりばめました。誰もが知っている香りを文章にすると、読者がそれを思い出して臨場感を得られるからです。全編にいい香りを漂わせる、というアイデアは、このエピソードから得られたものです。また、尾杉さんが夜空を見上げて星に夢を誓ったという爽やかなエピソードは、陽皆の母の体験として登場しています。