スイート・ホーム オフライン

小説原案エピソード(1)

小説「スイート・ホーム」は原案となるエピソードをみなさまからお寄せ頂きました。

それらの中から原田マハさんが特に共感した3点を紡ぎ、世界に二つとない小説に仕上げたものです。

このページではそのうち坂下 喜子さんがお寄せ下さった小説原案エピソードをご紹介します。

坂下 喜子さま「10年前の私へ」

家を買うというのは、よほどの金持ちではない限り、一生に一回の大きな決断だ。

買い物、という言葉は、あまりに軽い気がする。「決断」である。私たち夫婦も昨年夏、その大きな人生の決断を経験した。そして、住宅ローンという、今まで見た事も無いような額のお金を銀行から借り入れたのであった。それはもう、とんでもない責任を負ったのだと思った。家の鍵を手にした時、なんだか身の引き締まる思いだった。
とにかく私は臆病者なのである。缶ジュースを買うだけでも、いつもウジウジ悩んで周りの人間を苛つかせる。そんな私なので、家を買うという一大事、そりゃあもう悩みまくりましたとも…。と、ならなかったのがまた不思議なところ。なんと、この一生に一度の決断を、私はたった一度その家を見に行っただけで答えを出してしまったのだった。縁。運命。とにかくこの住環境を、一瞬で気に入った。そして、一度現場に足を運んだだけで、決めてしまったのである。1,000円 のシャツを買うのにだって、二回は店と家を往復するこの私が。それまでにも、何件か色んな土地に住まいを見てまわっていた。どれも素敵な家ばかりで、一時は心がときめいた。しかし、どうもピンとくるものがなかった。では、今のこの住居は何が決め手になったのか?

私達夫婦は、この家の、大きな窓のあるリビングにがっちり心を掴まれたのだった。開放的なその窓は、これから移り変わる季節、長い年月、どんな景色をみせてくれるのだろう?この部屋で子どもを育てたい、友達を呼びたい、ここで暮らしたい!と思ったのだった。

でも、ここに引っ越してきてから、私は宝塚という街そのものに惹かれたのだということを再認識した。美しい街並み、「宝塚」というただそれだけでエレガントで優雅な響き(笑)に、地方出身の私は確かに憧れていた。家、というのは人間が単に生活する箱を買うというだけではなく、そこでの生活を買うということで、すなわち環境がいかに重要であったのかを、住んでみて再認識したのである。

と、ここまでは人に言える話。以下は、恥ずかしくて誰にも言えない話。宝塚に家を買いたい、って思えたほんまの理由は、そこが、私の好きな順ちゃん(夫)の育った街だからだ。ついでに言うと、十年前初めてデートしたのも、それからしばらくして初めてキスしたのも宝塚。ああ恥ずかしい、ああ馬鹿みたい、こんな理由。でも、毎日子どもを抱っこして汗だくで両手に重い荷物を持ちながら歩く、スーパーからの帰り道、私エレガントでも優雅でもないけど、ここで住めて幸せ、ってひしひし感じるのでした。

エピソード採用に至った理由(原田マハさんより)

何事にも臆病で、優柔不断で、なかなか決心出来ないのに、家を買うという大変な決断を一回でしてしまった。というのも、宝塚には夫との大切な思い出がたくさんあって、この街が大好きだから――という、坂下さんの街への思いとかわいらしいキャラクターが、主人公の「陽皆」を形作る上で決定的でした。小説を書き始める時、主人公のキャラクター作りが一番肝心です。「スイート・ホーム」では、少し引っ込み思案だけれど、芯が強くて優しい女性という主人公のキャラクターを、このエピソードをもとに最初に作り出すことができました。「この部屋で子どもを育てたい、友達を呼びたい、ここで暮らしたい!と思ったのだった。」という一文は、ほぼそのままラストシーンで活かしています。この一文を最後にもってこようと決め、物語を構成していきました。対談で実際お目にかかった坂下さんは、まさしく陽皆そのもので、物語から抜け出してきたような気がしたほどです。